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協和発酵バイオものがたり

現在の協和発酵バイオの設立は、2008(平成20)年。しかし母体となる協和発酵工業は、1949(昭和24)年に創立しました。このコーナーではそんな当社の知られざる歴史と概要について、ご紹介します。

第1回 世界初の発酵法によるアミノ酸量産化 第2回 CIマークの意味とその由来 第3回 結核を駆逐した「ストレプトマイシン」 第4回 「ジベレリン」による農業分野での貢献 第5回「協和発酵バイオ」誕生の歴史

第3回 結核を駆逐した「ストレプトマイシン」

ストレプトマイシン量産化で結核の駆逐に貢献

 かつての日本において、「不治の病」として恐れられた、結核。患者数は150万人に達し、長年にわたって死因の第一位でした。実はこの病の撲滅に、協和発酵バイオの前身である「協和発酵工業」も、大いに貢献したのです。それは社運を賭けた、大きな事業でした。
 1944(昭和19)年、アメリカのS・A・ワックスマン氏が、結核菌に卓越した効果が認められる抗生物質を発見。「ストレプトマイシン」と命名しました。
 日本でも、1949(昭和24)年には輸入が行われるようになり、さらに国内での生産も国策として進められることとなります。しかし当時、ストレプトマイシンの量産化には莫大な資金投入が必要であり、新興企業であった協和発酵工業にとって、資金の調達は容易なものではありませんでした。そんな中、当時の社長・加藤辨三郎は、ストレプトマイシンの量産化を基幹事業とすることを決断したのです。
 1951(昭和26)年、アメリカのメルク社と技術提携の契約を締結し、ストレプトマイシンの菌株と製造方法の提供を受けました。また山口県防府市に4億円をかけてストレプトマイシンの工場を建設。メルク社から迎えた技術者の力添えもあり、量産体制は軌道に乗りました。
 やがて、国内での生産が拡大してくると、輸出も行われるようになりました。1952(昭和27)年の台湾を皮切りに、中国、ブラジル、タイ、香港、スペインなどに輸出。世界各地で、協和発酵工業のストレプトマイシンが結核の駆逐に貢献したのです。


ストレプトマイシンの広告を掲げたバス


海外にも多く輸出された、当時のストレプトマイシン製品群

昭和天皇・皇后両陛下が防府工場をご視察

 「亡国病」といわれた結核でしたが、ストレプトマイシンにより、その死亡数は激減しました。1952(昭和27)年には厚生省にて「結核死亡半減記念式典」が挙行され、厚生大臣から感謝状と表彰楯を授与されています。
 そして1956(昭和31)年、昭和天皇・皇后両陛下が、協和発酵工業の防府工場ストレプトマイシン施設をご見学されました。陛下は顕微鏡に映るストレプトマイシン生産菌に非常に興味を示され、また「国民の健康と幸福増進のため、どうぞ一層ご勉励ください」とのお言葉もありました。


当時の富士工場全景


昭和31(1956)年、昭和天皇・皇后両陛下が防府工場をご視察

バックナンバー
第1回 世界初の発酵法によるアミノ酸量産化

第1回 世界初の発酵法によるアミノ酸量産化

協和発酵バイオの前身「協和発酵工業」は、1956年に微生物の力でアミノ酸を量産する革新的な方法「発酵法」を発明しました。

第2回 CIマークの意味とその由来

第2回 CIマークの意味とその由来

緑色の丸と「KYOWA」の文字を組み合わせた協和発酵バイオのCIマークには、さまざまな思いが込められています。

第3回 結核を駆逐した「ストレプトマイシン」

第3回 結核を駆逐した「ストレプトマイシン」

協和発酵バイオの前身「協和発酵工業」が、かつて日本で「不治の病」と恐れられた結核の撲滅に貢献したことをご存知でしょうか?

第4回 「ジベレリン」による農業分野での貢献

第4回 「ジベレリン」による農業分野での貢献

種なしぶどうを作る植物ホルモン「ジベレリン」。協和発酵バイオの技術は、農業の分野においても大きな貢献を果たしています。

第5回 「協和発酵バイオ」誕生の歴史

第5回 「協和発酵バイオ」誕生の歴史

私たちはキリングループの一員として、「協和発酵工業」の時代から受け継がれるバイオケミカル事業を展開しています。

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